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それから - 田中理恵.lrc

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[00:09.15]それから
[00:10.55]夏目漱石
[00:13.04]「僕は今更こんな事を貴方に云うのは、残酷だと承知しています。
[00:20.65]それが貴方に残酷に聞こえれば聞こえる程
[00:23.22]僕は貴方に対して成功したも同様になるんだから仕方がない。
[00:28.53]その上僕はこんな残酷な事を打ち明けなければ、
[00:33.14]もう生きている事が出来なくなった。
[00:36.66]つまり我儘です。だから詫るんです」
[00:40.93]「残酷では御座いません。だから詫まるのはもう廃して頂戴」
[00:47.52]三千代の調子は、この時急に判然した。
[00:51.90]沈んではいたが、前に比べると非常に落ち着いた。然ししばらくしてから、又
[01:00.33]「ただ、もう少し早く云って下さると」と云い掛けて涙ぐんだ。
[01:07.44]代助はその時こう聞いた。――
[01:10.44]「じゃ僕が生涯黙っていた方が、貴方には幸福だったんですか」
[01:17.31]「そうじゃないのよ」と三千代は力を籠めて打ち消した。
[01:24.21]「私だって、貴方がそう云って下さらなければ、生きていられなくなったかも知れませんわ」
[01:31.68]今度は代助の方が微笑した。
[01:36.56]「それじゃ構わないでしょう」
[01:39.33]「構わないより難有いわ。ただ――」
[01:45.31]「ただ平岡に済まないと云うんでしょう」
[01:48.87]三千代は不安らしく首肯いた。代助はこう聞いた
[01:55.22]「三千代さん、正直に云って御覧。貴方は平岡を愛しているんですか」
[02:02.20]三千代は答えなかった。見るうちに、顔の色が蒼くなった。
[02:08.20]眼も口も固くなった。凡てが苦痛の表情であった。代助は又聞いた。
[02:18.71]「では、平岡は貴方を愛しているんですか」
[02:23.02]三千代はやはり俯つ向いていた。
[02:25.95]代助は思い切った判断を、自分の質問の上に与えようとして、既にその言葉が口まで出掛った時、
[02:34.22]三千代は不意に顔を上げた。その顔には今見た不安も苦痛も殆んど消えていた。
[02:44.92]涙さえ大抵は乾いた。頬の色は固より蒼かったが、唇は確として、動く気色はなかった。
[02:54.58]その間から、低く重い言葉が、繋がらない様に、一字ずつ出た。
[03:01.46]「仕様がない。覚悟を極めましょう」
[03:06.64]代助は背中から水を被った様に顫えた。
[03:11.29]社会から逐い放たるべき二人の魂は、ただ二人対い合って、互を穴の明く程眺めていた。
[03:20.75]そうして、凡てに逆って、互を一所に持ち来たした力を互と怖れ戦いた。
[03:29.15]しばらくすると、三千代は急に物に襲われた様に、手を顔に当てて泣き出した。
[03:36.55]代助は三千代の泣く様を見るに忍びなかった。肱を突いて額を五指の裏に隠した。
[03:45.59]二人はこの態度を崩さずに、恋愛の彫刻の如く、凝としていた。
text lyrics
それから
夏目漱石
「僕は今更こんな事を貴方に云うのは、残酷だと承知しています。
それが貴方に残酷に聞こえれば聞こえる程
僕は貴方に対して成功したも同様になるんだから仕方がない。
その上僕はこんな残酷な事を打ち明けなければ、
もう生きている事が出来なくなった。
つまり我儘です。だから詫るんです」
「残酷では御座いません。だから詫まるのはもう廃して頂戴」
三千代の調子は、この時急に判然した。
沈んではいたが、前に比べると非常に落ち着いた。然ししばらくしてから、又
「ただ、もう少し早く云って下さると」と云い掛けて涙ぐんだ。
代助はその時こう聞いた。――
「じゃ僕が生涯黙っていた方が、貴方には幸福だったんですか」
「そうじゃないのよ」と三千代は力を籠めて打ち消した。
「私だって、貴方がそう云って下さらなければ、生きていられなくなったかも知れませんわ」
今度は代助の方が微笑した。
「それじゃ構わないでしょう」
「構わないより難有いわ。ただ――」
「ただ平岡に済まないと云うんでしょう」
三千代は不安らしく首肯いた。代助はこう聞いた
「三千代さん、正直に云って御覧。貴方は平岡を愛しているんですか」
三千代は答えなかった。見るうちに、顔の色が蒼くなった。
眼も口も固くなった。凡てが苦痛の表情であった。代助は又聞いた。
「では、平岡は貴方を愛しているんですか」
三千代はやはり俯つ向いていた。
代助は思い切った判断を、自分の質問の上に与えようとして、既にその言葉が口まで出掛った時、
三千代は不意に顔を上げた。その顔には今見た不安も苦痛も殆んど消えていた。
涙さえ大抵は乾いた。頬の色は固より蒼かったが、唇は確として、動く気色はなかった。
その間から、低く重い言葉が、繋がらない様に、一字ずつ出た。
「仕様がない。覚悟を極めましょう」
代助は背中から水を被った様に顫えた。
社会から逐い放たるべき二人の魂は、ただ二人対い合って、互を穴の明く程眺めていた。
そうして、凡てに逆って、互を一所に持ち来たした力を互と怖れ戦いた。
しばらくすると、三千代は急に物に襲われた様に、手を顔に当てて泣き出した。
代助は三千代の泣く様を見るに忍びなかった。肱を突いて額を五指の裏に隠した。
二人はこの態度を崩さずに、恋愛の彫刻の如く、凝としていた。